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八幡市アイコン  下馬碑と四天王寺

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下馬碑と四天王寺八幡平谷の相槌稲荷社の南、石清水八幡宮への石段の左、登り口に建っているのが下馬碑である。
高さ1.55メートル、上屋根形であり、この部分は55.5センチメートル。「下馬」の2文字を行書でもって大書している。この筆跡は、瀧本坊の住職だった松花堂昭乗のものと言われている。
この碑を見て、藤原尚次(男山考古録著者)は、摂津国の四天王寺に詣って、南門外道の東南の方向を向いた「下馬碑」があり、その形、文字の大きさ、彫刻の模様が八幡の下馬碑と全く同じで、さらに傍らに「寛永十四丑年」と彫っているのを見て、松花堂昭乗の筆跡であることは疑いないと言っている。また、松花堂昭乗は四天王寺において、弘法大師の筆法を学んだということが佐川田昌俊が記した『昭乗行状記』に見えることから、これは昭乗が四天王寺にいたときに書かれたものだろうと解説している。

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八幡市アイコン  善法律寺と足利義満

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善法律寺と足利義満善法律寺は律宗の寺である。建物は本堂を中心に庫裡、阿弥陀堂、聖天堂が配されている。その本堂は、弘安年間(1278〜1288)に石清水八幡宮の社殿を移して建立したものという。寺は石清水八幡宮検校であった善法寺宮清が正嘉年間(1257〜1259)に私邸を喜捨して創立し、奈良東大寺から実相上人を招いて開山したことに始まる。
室町時代には、善法寺通清の娘良子が将軍足利義詮に嫁ぎ、3代将軍義満の母となった。義満は神社信仰に篤く、特に八幡宮を崇敬したため、20数回も八幡を訪れている。以後の義教、義政も繁けく往来し、将軍家と善法寺家との密接な関係が続いた。従って律寺も足利家の庇護を得て隆盛を極めたのである。
良子は善法律寺へ自分の好きな紅葉の樹をたくさん寄進したことから、寺は別名「紅葉寺」と呼ばれている。本堂に安置されている八幡大菩薩(僧形八幡)は、明治元年(1868)に神仏分離が行われるまで石清水八幡宮の殿内に安置されていたという。等身彩色の座像は、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ鎌倉時代の作である。

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八幡市アイコン  頼風塚と女郎花塚

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頼風塚と女郎花塚八幡市民図書館に近い和菓子店の裏にある小さな五輪石塔を「頼風塚」「男塚」という。この石塔に対して松花堂庭園の西隅にある小さな五輪石塔を「女郎花塚」「女塚」といい、平安初期の叶わぬ恋の物語を今に伝えている。男塚の主は、八幡に住まいしていた小野頼風という人で、806年から808年ごろ、京に深い契りを結んでいた女性がいたが、いつしか二人の間に秋風が吹いていた。京の女は思いあまって八幡へと男を訪ねてくると、男が他の女と暮らしていることを知り、悲嘆のあまり泪川に身を投げて死んでしまった。やがて、彼女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ちて、そこから女郎花が咲いた。頼風がこの花の元に寄ると、花は恨んだ風情をたたえながら頼風を嫌うようになびくので、頼風は「こんなにも私を恨んで死んだのか」と自責の念にかられ、放生川に身を投げて死んでしまった。人々はこれを哀れみ、二人の塚を築いたという。頼風塚の周りに生い茂っている葦は「片葉の葦」と呼ばれ、女郎花塚の方にしか葉がついておらず、その葉が女郎花塚に向かい今も「恋しい、恋しい」となびいているのだという。

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八幡市アイコン  巡検道と寝物語国分橋

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巡検道と寝物語国分橋東高野街道を八幡市民図書館から南へ300メートルほど行くと、左に入る道の角に「巡検道」と刻まれた道標が建っている。ここは「馬場」と「神原」との字界で、巡検道は、ここを起点とし、幅3メートルに満たない道は曲がりくねり、東へと延びている。旧市街地を抜けて大谷川を渡り、田園地帯を下奈良まで、その距離は約2キロメートル。古くはこの道を境にして、南を綴喜郡、北を久世郡とした、いわゆる郡界であった。神原町には寝物語古蹟国分橋の碑が建つ。
この寝物語国分橋というのは、その昔、郡や村の境を決める際、両方の村から同時に出発し、出会った場所をその境界としたという。しかし、「出発までにはまだ時間があるから、もう少し、休もう」と、そのまま寝込んでしまい、出発の時刻を過ぎてしまった。そのために領界が減ってしまったというものだ。その碑の前にかかる「かへらずの橋」(国分橋のこと)とともに江戸時代以前からの伝承にちなんでつけられたものであると思われる。

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八幡市アイコン  正法寺のお亀さん

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正法寺のお亀さん東高野街道沿いの八幡清水井の地にある。寺は建久2年(1191)に、清水(静岡県清水市)の高田蔵人忠国が源頼朝の幣礼使としてこの地に居住し、新清水と称したことに始まる。三代目宗久は、石清水の「清」を避けて志水と改め、嘉暦元年(1326)、本格的な堂舎、仏閣を営んだ。第11代住持伝誉上人が天文16年(1547)、後奈良天皇に法談を行ったことによって勅願寺に補せられた。また、慶長年中(1596〜1615)には、宗清の娘亀女(号=相応院)が徳川家康の側室となった。それには、こんなエピソードが今に伝わっている。
お亀さんが子どもを行水させていると家康の行列が通った。お亀さんは慌てて子どもをタライに入れたまま家の中へ。これを見ていた家康は「この人なら元気な子どもを産んでくれるに違いない」と見初めたという。お亀さんは、尾張藩主となる義直を産んだ。寺は同藩の庇護を受け、八幡領が検地を免除され、守護不入の特権を得られたのは、彼女の働きによるところが大きかった。現在の建物は、寛永7年(1630)に再建された本堂・方丈・唐門・鐘楼など七堂伽藍を備えている。

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八幡市アイコン  どろ松大明神とと庵主様

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どろ松大明神と庵主様八角堂に近い東高野外道沿いに木造の赤い鳥居を持つ「泥松稲荷大明神」が祀られている。
その昔、もみじ寺というところに小柄で豆狸のような庵主様がいた。また、近くにあった祠には、いたずら好きの狸が住み着いていた。
ある日、狸はいたずらが過ぎて、村人にこっぴどくお仕置きをされ、弱ってうずくまっているところへ庵主様が通りかかった。庵主様は、狸をお寺へ連れて帰って手厚く看病してあげるとすっかり元気になった。その狸の名は「どろ松」といい、その後、庵主様について、一緒にお祈りをするまでになったそうだ。
そのどろ松が亡くなると、庵主様は御霊を祀り、朝夕に拝んだそうだ。すると、庵主様にどろ松の霊力が乗り移り、占いが良くあたるようになったという。この噂は京都や大阪に広がり、「どろ松様のお狸様」と呼ばれ、「どろ松大明神」の社と鳥居が奉納された。
今でも、「どろ松大明神」と一心不乱にお祈りすると、願いが叶うと言われている。

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八幡市アイコン  海を泳いできた八角堂の仏様

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海を泳いできた八角堂の仏様御堂は市内最大の前方後円墳である西軍塚古墳の円頂部に建っている。
もとは男山西谷にあったが、神仏分離令によって八幡宮境内から仏教関係の堂舎・仏像などが撤去された際、正法寺住職が堂宇・尊像とも迎請し、この地に移したものである。堂舎は順徳天皇の御願によって、八幡宮検校善法寺祐清が健保年間(1213〜1219)に建立したもので、後に大破。慶長12年(1607)8月、豊臣秀頼の御願によって尾張国小出大和守吉政が再建した。
元禄11年(1698)7月、社務の善法寺央清は勧進を募り、堂宇を再興した。堂内に安置されている金色の丈六阿弥陀仏(重文)は鎌倉時代初期の作で、中品中生の説法印を結び、十三体の化仏を配した大きな光背を後に付している。ために本尊と化仏を対比し、一光千仏といわれている。
仏像の手の指の間に膜のようなものがついている。これは八幡神の遷座を慕って、仏像が海を泳ぎ渡ってきたときの水掻きであるという里俗の伝説がある。流転を経て色あせた八角形の異形は、なぜか周囲の雑木と竹林にみごとに調和している。
 
八幡市アイコン  円福寺と達磨像

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円福寺と達磨像円福寺は洞ヶ峠の北側にある。3万坪の境内には、山門、本堂、禅堂、有栖川宮家旧御殿などが甍を連ねている。寺は天明3年(1783)、妙心寺の斯経和尚が八幡宮別当田中家から円福寺の寺号と達磨像を譲り受け、さらに同年、南山焼の祖、浅井周斎から土地の寄進を受けて、臨済宗最初の専門道場として建立された。
達磨大師座像(重要文化財・鎌倉時代)は聖徳太子自作と伝えられ、もとは大和達磨寺に安置されていたが乾元3年の炎上によって守護片岡家に移された。のち片岡家一族分散に際して片岡大和守光次が達磨像を背負って八幡に至り、、石清水八幡宮別当田中家に託したのだという。後年に田中家炎焼に際しても、像のみ難を逃れたといい、その霊験から、田中家では古刹の、円福寺に安置した。達磨像は法衣をまとい、両手を腹の上に重ね、目を大きく見開き、唇を固く結んで前方を凝視している。これは、座禅を組んで瞑想三昧にふける姿であり、虚心坦懐の境地と気迫が漂っている。達磨はその風貌だけでなく、内面性までも表現している。毎年春と秋の万人講で公開される。

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八幡市アイコン  南山焼と浅井周斎

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南山焼と浅井周斎浅井周斎(1720〜1800)は、短賢・鳳州園と号し、八幡の地に生まれた幻の焼き物「南山焼(なんざんやき)」を創始した人である。
徳川吉宗の時代、享保5年(1720)に生まれた周斎は、大坂で鉄を扱う商人として2万両ともいわれる財をなしたが、晩年にこの家業を捨て、男山の麓に居を構えた。八幡での彼の生活は、法華経を唱えて修行し、その他茶の湯、詩吟にも通じていたという。特に彼が没頭したのは作陶活動で、八幡南山に窯を作り、そこで焼く器の底には「無」の字を刻し、これが「南山焼」といわれた。その作風は「高雅にして韻致あり、陶業界に一機軸を顕し・・・」と高く評されたという。
周斎の人物像も、きわめて清廉、欲のない人であったようで、その財産は、作陶活動や貧しい人の救済に当てられ、また、円福寺の建立にあたって3万坪の土地を寄進した。そして、寛政12年(1800)、80歳で亡くなったときの所持金は、200文にも満たなかったという。円福寺境内には、小さな浅井周斎のお墓がある。

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八幡市アイコン  洞ヶ峠と筒井順慶

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洞ヶ峠と筒井順慶「洞ヶ峠を決め込む」といえば、日和見の代名詞となっているが、その舞台となったのが八幡市西部丘陵「洞ヶ峠」での逸話で、その人物が筒井順慶(1549~1584)である。
順慶は、信長の重臣明智光秀に仕えて各地を転戦した。天正10年(1582)6月、光秀は本能寺で織田信長を滅ぼし、山崎の天王山で秀吉の軍勢を迎え討った。世に言う「天下分け目の戦い」である。この戦いに光秀は大和郡山の城主筒井順慶に加勢を求めるが、順慶は山城、摂津、河内を見おろす洞ヶ峠に駐屯し、有利な方につこうと戦局を傍観、秀吉勝利と見るや峠を下り、秀吉に味方したことから、「洞ヶ峠を決め込む」の語を生んだ。しかし、実際には、順慶は洞ヶ峠には出陣していないというのが真相のようだ。
その後、秀吉の配下となるが、天正12年(1584)8月11日、36歳という若さで亡くなった。その順慶は、茶の湯、謡曲などに優れた教養高い武将であったという。

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八幡市アイコン  湯澤山茶久蓮寺と秀吉

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湯澤山茶久蓮寺と秀吉京阪橋本駅の改札前に「湯澤山茶久蓮寺跡」の碑が建っている。寺は焼失し今はもうないが、秀吉の駄洒落が寺の名の改名に至った逸話をいまに伝えている。
寺の名は常徳寺といい、天下分け目の戦いと言われた山崎合戦の際、豊臣秀吉と明智光秀方の両方から使いの者がこの寺にやってきて、「戦いが済んだら弁当を食べるので、茶を沸かしておいてくれ」と言った。寺ではどちらの頼みを聞けばいいのか迷って、とりあえずお湯だけ沸かしておいたという。戦いが終わり、勝った秀吉の軍勢が大勢やってきた。お寺はお茶を用意していない。しかたなく「お湯を飲んでくだされ」と申し訳なさそうに差し出すと、勘のいい秀吉はいきさつを察し、「この寺はお湯をたくさんくれるがお茶は出してくれん。これからは寺の名を『湯だくさん茶くれん寺』と名乗るがよい」と言った。寺はこの言いつけを守り、「湯澤山茶久蓮寺」と改名したという。秀吉はこの寺に田地三百石を寄進したという。

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八幡市アイコン  講田寺と人柱伝説

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講田寺と人柱伝説講田寺は曹洞宗の禅寺である。古くは生津村(京都市伏見区)にあったが、水害を避けて当地に移ったとされている。本堂の中に「笑地蔵」が安置されているが、その柔和な笑みのなかに人柱伝説の悲劇が伝えられている。その昔、淀川に橋が架けられていた。しかし、出水のたびに流れてしまうので、ついに人柱が立てられた。
この人柱になった男に一人の娘がいて、娘は父の死を深く嘆き悲しみ、ものを言わない人になった。やがて娘は、父の菩提を弔うために尼となって対岸の山崎に草庵不言寺を結んだ。
それから約200年の歳月を重ねたあるとき、朽ちた橋の杭が水底から姿を現し、時の後一条天皇がこの一片に身の丈け二寸六分七厘の地蔵尊を彫って供養したという。人々はこの地蔵を「笑地蔵」と呼び、水難除け、交通安全、安産などの御利益があるとして信仰を集めるところとなった。その後、この地蔵尊が安置されていた不言寺が廃寺となり、明治37年に淀川を挟んで対岸となる講田寺に一宇を建立して安置された。

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八幡市アイコン  岩田帯とお姫様

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岩田帯とお姫様安産を願って妊婦がお腹に巻く布を「岩田帯」というが、そのいわれが八幡市南東部の岩田に伝わっている。
その昔、岩田の地域は綿の産地だった。ある年、どのこ農家も綿の刈り取りに精を出していた秋晴れの昼下がり、京の都から大勢のお供を連れたお姫様が急に産気づき、周りのお供があわてふためいていると、それに気が付いた村人たちが、近くの野小屋に収穫したばかりの綿を敷き詰めて寝かせ、無事、元気な赤ちゃんが生まれた。その頃のお産は、悪くすると命を落とすこともある大変なことだったが、村人の機転と岩田の綿が、安産に導いたのだ。その後、岩田地区では縁起を担ぎ、綿を紡いで布を織ると、毎年正月には、厄除けを祈願して村にあるお宮さんに奉納し、賽銭箱の上に吊るした鈴に結わえた。また、身ごもった女性が5ヶ月目になると、その鈴につけた布をもらい、安産になるようにと、しっかりお腹に、巻いたそうで、これが「岩田帯」の起源だという。

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