2010年9月 7日(火) 05:09 JST
『山城綴喜郡誌』によれば、大宝2年(702)当地に鎮座、文治4年(1188)源頼朝により神事料として土地の寄進をうけたとある。
以前は牛頭(ごす)天王社と称され、明治になり石田神社と改称した。現在、祭神は建速須佐之雄命である。境内は、堀状の水路が周囲をかこみ、木々が茂る鎮守の森の様子をよくとどめている。又、当神社に伝わる1200点以上の古文書類は、神社及び上津屋地区の歴史を語る貴重な資料である。
本殿は、嘉永4年(1851)造営(「伊佐家文書」)の比較的大きな一間社の流造で、木津川の水害を意識してであろうか、一段高い石垣の上に建つ。拝殿も同時期のものであるが、享保20年(1735)再建時に葺いた刻銘入り鬼瓦を屋根にのせている。
現在、御輿倉として利用されている建物は、もと宮寺の福泉寺で本地仏である薬師如来を本尊とする薬師堂であった。(「石田神社文章」)本尊は、明治の神仏分離で、同里垣内浄土宗西雲寺に移され、現在に至る。当神社に残る古文書の中に文政5年(1822)この薬師堂の普請願書があり、建築様式からみても、江戸後期この頃の築造と考えられ、瓦も大きく、しっかりした造りである。
築造当初は、蔀戸(しとみど)で北側に出入口があり、御輿倉転用時に前扉を付け替えたと考えられる。
本市内で廃仏毀釈にもかかわらず、神仏混淆の宮寺の跡をとどめるのは、ここ石田神社だけである。これら建物群をはじめ古文書に至るまで大切に保存されたのは、上津屋村の氏子中の強い結束と努力のたまものであろう。