2010年9月 7日(火) 04:10 JST

太鼓祭り

  • 記事を友人にメールする
  • 印刷用画面

    7月中旬   市内   7月18日   宮入り 高良神社前

    八幡の初夏の風物詩「太鼓まつり」は、文政年間(1818〜1830)頃、太鼓をのせた大きな「屋形御輿」が町内ごとに作られ、勇壮な祭りへと発展していった。現在では市内4地区で男衆約150人が、約1.5〜2.0トンもある御輿を担ぎ、「よっさー、よっさー」のかけ声も勇ましく、太鼓を打ち鳴らしながら町内に繰り出す。太鼓まつりの最大の見どころは、本宮の7月18日、午後6時30分頃、男山の麓、高良神社に各御輿が一堂に集まる「宮入り」で、参道を練り歩くその姿は迫力満点である。
    また、高良神社例祭の提灯献灯は、天明3年(1783)頃、高良神社社頭に提灯を掲げることから始まったが、明治維新の混乱で中断。明治12年(1879)頃になって復活し、同16年(1883)、新暦7月18日を祭日とした。その後、再び提灯献灯が途絶えたが昭和62年(1987)に石清水八幡宮青年会と地元神縁者により復興、例祭当日までの七日間、毎夜点灯される。

    太鼓まつり昼太鼓まつり夜景

石清水祭

  • 記事を友人にメールする
  • 印刷用画面

     

    石清水八幡宮

       9月15日   石清水八幡宮

    毎年9月15日、石清水八幡宮で勅祭の石清水祭が斎行される。この石清水祭は、貞観元年に九州の宇佐八幡宮から八幡大神が勧請されてから4年後の貞観5年(863年)8月15日、八幡大神が男山の裾を流れる放生川で、「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願い、放生川に魚を放す「石清水放生会(いわしみずほうじょうえ)」としてはじめられた。
    この石清水放生会が勅祭として斎行されたのは、朱雀天皇の時代、天暦2年(948)の勅使御差遣に始まるとされており、生きとし生けるものを憐れみ慈しむ八幡大神の神慮に応え、毎年勅使を差し遣わして、国家の安寧と国民の幸福を祈誓した。 その後、天延2年(974)には、朝廷の諸節会に準じ雅楽寮の楽人舞人が楽舞を奏することなどが定められ、さらに建久2年(1070)には、当日の太政官勤務の最上位たる上卿が勅使を兼ね、参議以下朝廷の諸官を率いて参向し、天皇行幸の儀に準じ弓箭を帯して警蹕を唱え、神輿の渡御を行うなど、荘厳の度を加えることとなった。
    祭典は、15日午前2時、山上の本殿において鳳輦三基に石清水八幡宮の祭神である応神天皇、神功皇后、ヒメ大神の三座の神霊を奉遷する儀式から始まり、同3時過ぎに鳳輦は本殿を出発、500余人もの神人(じにん)と呼ばれるお供の列を従え、松明と提灯の明かりを頼りに山を下る。午前3時40分頃に山麓の絹屋殿に着御された後、勅使以下の奉迎を受け、前陣を整え午前4時15分、頓宮に入御、午前5時30分頃から献饌、供花、奉幣、牽馬など古儀による華麗な奉幣祭が厳修される。
    午前8時頃には、放生川の安居橋下流側で魚鳥を放つ放生行事が行われたあと、安居橋の上で「胡蝶の舞」を奉納。これら一連の神事を終えた後、同日午後6時30分頃、鳳輦は再び山上へと還幸し、山頂の本殿に着くのは午後8時ごろ。
    石清水祭は、葵祭り(賀茂祭)、春日祭とともに旧儀による三大勅祭の一つに数えられる。王朝盛時における高尚典雅の風を現代に伝える正統的祭祀の典型であるとともに、文化と歴史の動く古典として貴重な文化財である。

ずいきみこし

  • 記事を友人にメールする
  • 印刷用画面
    ずいき神輿

      10月上旬  上奈良・御園神社

    ずいきみこしは、延暦6年(787)11月、桓武天皇の時代に社を建立し、奈良の春日大社から三神を移座したと伝えられる御園神社のお祭りです。この祭りが催される上奈良地区は、「奈良の御園」と呼ばれ、朝廷に献上する瓜、ナス、ダイコンなどの野菜を栽培していた所で、ずいきみこしは、この名残を残し、サトイモの茎で屋根を葺き、その年に採れた30種にも及ぶ野菜で御輿を飾りたて、五穀豊穣に感謝する秋を彩る代表的な祭礼の一つとして、上奈良ずいきみこし保存会によって受け継がれています。