ロマン街道伝説を行く

徳川家康の祈願所 豊蔵坊

豊蔵坊は、表参道の休憩所「鳩茶屋」の少し下にあった。その大きな敷地面積や22基に及ぶ常夜燈の献納の数からも、四十八坊のなかでも大きな勢力を有していたことがうかがえる。

豊蔵坊は徳川家康が江戸入府以前からの祈願所で、戦場にあっても自身の加護を祈ったと寺記や註進記(明和4年)にみられる。
また、江戸期を通じて将軍家代参などの宿泊所で、毎年祈祷の神札を幕府に献上していた。

豊蔵坊には、家康公42歳の等身大肖像、帯劔衣冠繧繝縁茵上座像が安置されていたと伝えられている。また、もとは宝蔵坊といったらしく、家康が国家豊穣を祈願することから「宝」を「豊」に変えよとの言いつけにより、変えたという記録が残っている。秀忠の代に寺領加増があって、朱印地300石を有した。
元和年間(1615〜1623)の頃、孝仍という大徳寺の僧がここに住み、松花堂昭乗に法儀を教えた。豊蔵坊孝雄(信海)は、昭乗晩年の弟子で、足立寺史跡公園内の塚に彼の墓がある。
文久3年(1863)には孝明天皇の攘夷祈願がなされ、倒幕へ大きな影響を与えたという。

男山山頂にある神馬舎前の三の鳥居は、南北朝が統一まもない応永7年(1400)7月16日に建てられた。それから約200年間、鳥居は大木を用い、朱塗りにし、金で飾られ、非常に美しかったようだ。

正保2年(1645)正月に石造りに改められ、松花堂昭乗の門人、法童坊孝以の筆によって、源家の霊を崇め、武門繁栄の祈請文が記されたが、鳥居は安永3年(1774)の台風で倒れ、その後、安永7年(1778)5月に修復された。現在の鳥居は、昭和36年(1961)の第二室戸台風で再び倒壊したものを翌年12月に再建したものである。

三の鳥居と一つ石

この三の鳥居がまたぐ参道敷石のほぼ中央(やや東寄り)に自然石がはめ込まれている。大きさは90センチ×約60センチで、周りの敷石から少し盛り上がっている。「一つ石」といい、お百度参りの起点になっていたという。蒙古襲来の時には人々がこの石と本殿前を往復し、「道俗千度参」を奉修したという。また、江戸時代に本殿参拝を終えた参詣人が、この「一つ石」の前で再び本殿に向き直って拝礼するという習わしに目をつけ、石の上に大きな賽銭箱が菊坊によって置かれた。賽銭の収納に関わって争論となり、神社上層部が中に入って賽銭箱を撤去したという。

男山四十八坊の石灯籠

明治元年(1868)の廃仏毀釈前までは、石清水八幡宮は神仏混淆の神社であった。本殿では毎日読経が流れ、社僧をいう僧侶が社務を取り仕切ったという。

かつて男山には48もの坊があった。
「坊」とはお寺のことで、今では石清水八幡宮参道の石垣と八幡宮本殿前の参道に並ぶ石燈籠に往時を偲ぶしかない。
この48坊、ある時代に、すべて存在したということではなく、全盛期で50近く、これが火災や廃絶などによって減ったり増えたりしていた。

江戸時代中期の古図には「八幡山上山下惣絵図」には43の坊を見ることができるように、だいたい40前後が常に男山にあったようだ。その坊も明治の廃仏毀釈直前には23の坊になっていたという。
石燈籠の竿の部分には「宿坊 ○○坊」と刻まれたのを見かける。この「宿坊」というのは、遠くから石清水八幡宮を参拝された旅人を泊める宿泊施設をもった坊であった。この宿泊費を坊の維持費に充てていたようだ。

太西坊は男山にあった四十八坊の一つで、石清水八幡宮本殿北側にあった。

太西坊の住職、専貞は赤穂の大石内蔵助良雄の実弟であった。
元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及んだ「松廊下事件」が起こる。
その7日後の3月21日に大石良雄は太西坊に対して「城はいずれ明け渡さなくてはならないから、浪人となる14〜15人の仮住まいを探して欲しい。できれば男山の麓か山崎、山科、伏見、大津あたりで見つけて欲しい」という書状を送っている。

太西坊と赤穂浪士

このあと、大石良雄が江戸に下向するとき、太西坊に立ち寄り、仇討ちの大願成就を石清水八幡宮に祈願したといわれている。
また、太西坊専貞の弟子の覚運は、大石良雄の養子となった人で、後に一時衰退した太西坊を再興した。太西坊の紋は二ツ巴を用いたと言われている。
石清水八幡宮本殿北側には、ひときわ大きい太西坊の石灯籠が残っている。

発明王エジソンと八幡竹

発明王トーマス・アルバ・エジソンは白熱電球の実用化にあたり、動物の爪や植物の繊維など、ありとあらゆる材料を使って実験を繰り返していた。
その材料は6000種を数えたという。

そんな折り、研究室にあった扇に使われていた竹を使って実験すると、思いのほか、良い結果を得る。そして世界各国に竹を求めることになった。
明治13年(1880)夏、エジソンの特命を受け、日本にやって来た助手のウイリアム・H・ムーアは2代京都府知事の槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」と紹介される。そしてムーアによって男山付近で採取された真竹がエジソンの元へ送られた。

結果は驚くべきものだった。約1000時間も明りを灯し続けた。以来、男山の竹はセルロースのフィラメントにとってかわる1894年までの約10年間、「八幡竹(はちまんだけ)」の名で、エジソン電灯会社に輸出され、何百万個の馬蹄型フィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けた。

石清水八幡宮境内には、エジソンが男山の竹を使って白熱電球の実用化に成功したことを記念し、記念碑が建てられている。

- spot -エジソン記念碑

石清水八幡宮の320余基の燈籠の中で、ひときわ、異彩を放っているのが「永仁の石灯籠」と呼ばれる石灯籠で、重要文化財に指定されている。

今は社務所横の書院の庭に移設されているが、元は本殿東側階段下の伊勢大神宮遙拝所に立っていた。
『男山考古録』によると、以前は1基だけだったが宝暦年間(1751-1764)に古灯籠を模して作り、2基としたもので、「灯籠は古物であり、名作である」とその価値を早くから説いていた。昭和になって、その価値を再び世に知らしめたのが川勝政太郎氏(文学博士)であった。川勝氏は昭和7年(1932)にこの石灯籠を発見し、拓本によって竿の部分の刻名「永仁3年(1295)乙未3月」を明らかにし、鎌倉時代中期の作と確認。

 永仁の石灯籠

また、川勝氏は「この石灯籠だけが飛び抜けて古く、他に模造されたものが少ないことから、古くから人々はこの燈籠を尊び伝えられてきたものだろう」と推測する。
その概観については「一番下の基礎側面の格狭間、上の穏やかな単弁は特に眼に付く。(中略)全体の形を評するならば、その均合のとれた姿は洗練された鎌倉燈籠の一級品のひとつであるということができる。中台が程よく大きく、伸びやかで、中台から火袋・笠の示すゆったりとした感じは、荘重の内にも重苦しさがない。」と紹介されている。

捨てられた鐵灯籠

石清水八幡宮の本殿東側の昇段口横に鉄の燈籠が一対ある。

中国において仏前の献灯として起こった燈籠は、日本には奈良時代に伝わった。我が国では、仏前のみならず、神前にも建てられ、その素材には、石だけではなく木や鉄のものもある。
石清水八幡宮には320余基の燈籠があるが、その中で、鉄でできた燈籠が残されているのがこの燈籠である。

『男山考古録』によると、松平越中守(京都所司代、松平越中守定敬のことと思われる。在職期間は元治1(1864)4.11〜慶應3(1867)12.9まで)の時に奉納されたという。
はじめは南楼門石階を下ったところ、石畳のある側の左右にあったようだ。
しかし、宮寺より神事や仏事の際に邪魔になるといわれ、「こは神の納受無きにや有らん」と早速取り払い、西山の谷に捨てられたという。これを山上衆徒が密かに拾って今のところに置いた。このことから彼らにより『燈油料不被獻』と言い伝えられている。

石清水八幡宮の勧請

男山山頂にある石清水八幡宮は、応神天皇、比咩大神、神功皇后をまつる旧官幣大社である。

八幡宮の遷座以前は、男山山中から湧き出る清泉を神としてまつっていた。
貞観元年(859)、奈良大安寺の僧、行教が、九州・豊前国の宇佐八幡で「吾れ深く汝が修善に感応す。敢えて忍忘する可からず。須らく近都に移座し国家を鎮護せん」との八幡大菩薩の神託をうけた。
その後、平安京に向かう山崎離宮(大山崎町)で、再び「王城鎮護のため、男山に祀るように」との神託があった。

行教はこのことを朝廷に報告。時の清和天皇の命を承け、木工寮権允橘良基が宇佐宮に准じて、正殿三宇、礼殿三宇からなる神殿六宇の造営に着手し、翌貞観2年(860)4月3日に「石清水八幡宮」は鎮座した。
以来、朝廷の崇敬を得て、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟と崇められ、源氏もまた八幡神を氏神として仰いだため、八幡信仰は全国に流布した。
なかでも、源義家は7歳にして石清水八幡宮において元服、「八幡太郎義家」と名乗り、源氏一門を降昌に導いた。

- spot -石清水八幡宮

石清水八幡宮の現社殿は寛永8年(1631)から寛永11年(1634)にかけて三代将軍徳川家光の造営によるもので、楼門、舞殿、幣殿、外殿、正殿、廻廊からなっており、すべて重要文化財に指定されている。

楼門は、入母屋造り、桧皮葺で、左右に廻廊を出して外囲いを作り、前方に唐破風の向拝(ごはい)をつけた珍しい建築である。
また、本殿は八幡造りといわれる建築様式で、外陣(外殿)と内陣(正殿)とに分かち、三間社を一間づつあけて1棟とする「11間社八幡造り」の形になっている。

石清水八幡宮目貫の猿

建築の細部にわたって、極彩色の華麗な桃山風透かし彫りが多数施されており、その数は152点にも及ぶ。そのほとんどは花鳥などをモチーフにしたものである。
特に西門上にある蟇股(かえるまた)と呼ばれる部分の彫刻は「目貫の猿」と呼ばれている。
これは、あまりにも彫刻が見事なため、猿に生命が宿り、夜な夜な社殿を抜け出してはいたずらをした。そこで、これを封じるために右目に細い釘を刺し逃げ出さないようにしたという伝承が残っている。

石清水八幡宮黄金の樋

石清水八幡宮が所蔵する数多くの宝物の中にあって、特に際だっているのが本殿に架かる黄金の樋である。

この樋は、八幡造りといわれる外殿と内殿の谷にかかっており、その大きさは長さ21.6メートル、外径0.6メートル、深さ0.21メートルで厚さは実に3センチメートルもある。

『信長公記』には、石清水八幡宮の黄金の樋について次のようなことが書かれている。
「天正7年(1579)12月10日、信長公は山崎に陣を移し、翌11、12の2日間は雨天のため京都山崎の宝積寺に滞在していた。そのとき、石清水八幡宮の内殿と外殿の間には昔から木製の樋がかかっていたが、それが朽ち腐って雨が漏り、損壊寸前であり、難儀していることを聞き、早速、造営を決めた。天正8年(1580)3月、仮遷宮があって、ほどなく社頭・社殿の屋根をふき終え、築地・楼門の工事もすみ、金ぱくや七宝をちりばめ、わずか9か月で、造営をすべて終えた。」
信長はこのあと正遷宮に訪れ、武運長久と家門繁栄を祈ったという。

石清水八幡宮本殿北東の角の石垣が欠けたようになっている。
これは、鬼門の方位のためによる。

鬼門とは、丑寅の方位(北東)を指し、悪鬼が出入りするところ、また宿るところと考えられ、古来より忌み嫌われる方位とされてきた。この鬼門の方位の角をなくすことにより、鬼が中に入れないようにする意味があるという。

石清水八幡宮の鬼門

鬼門については、長岡京から遷都された平安京にも見ることができる。
それは、比叡山延暦寺が北東の鬼門除けに、石清水八幡宮が南西の裏鬼門除けに建てられ、平安京を神と仏で守護しようとしたものである。

霊泉が湧き出る石清水社

石清水社は、松花堂昭乗が住んでいた瀧本坊跡の西側にあり、石清水八幡宮の摂社のひとつである。社殿の前には、「石清水の井」があり、古来皇室や将軍家の祈祷の際には、この井から水を汲んで本殿に献上するのを例にした。

石清水社の起こりは、八幡宮が貞観2年(860)に遷座する以前にさかのぼる。
それは、私たちの祖先が男山から湧き出る清泉を神として祀っていたもので、社名もそれにちなんで付された。

社前には石造りの鳥居があるが、これには松花堂昭乗の筆で、寛永13年(1636)京都所司代、板倉重宗が寄進した旨が記されている。
泉は鳥居の奥にあり、岩間から今なお清水が湧き出ている。
その右側には社殿がみえる。草色の格子塀と背後を崖に囲まれた社殿の朱塗りが映える。石清水社の祭神は天御中主命である。
男山には、「石清水の井」を含め、5つの井戸が残っている。

文化サロン泉坊・松花堂跡

泉坊は石清水社を少し下った所にあった。
西面には唐破風の玄関があり、客殿上壇の間には襖障子に数艘の唐船が描かれていたという。

松花堂昭乗は、慶長5年(1600)石清水八幡宮の社僧となり、やがて瀧本坊の住職となった。
昭乗の出生、素性は明らかでなく、豊臣秀次の御落胤ともいわれる。
昭乗は後に松花堂流とも言うべき書風を確立。近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称された。絵画では狩野山楽、山雪に大和絵を学び、歌や茶道にも才能を発揮した。

「松花堂」は昭乗が人生の晩年に幽栖するために寛永14年(1637)に男山中腹の泉坊のそばに作った草庵茶室で、たった二畳の広さの中に茶室と水屋、く土、持仏堂を備えていた。
ここに詩仙堂の石川丈山や小堀遠州、木下長嘯子、江月、沢庵、淀屋个庵など多くの文化人が訪れ、さながら文化サロンの様相だったと伝えられている。
松花堂の軒の扁額には「松花堂」と隷書で彫られ、「惺惺翁」の落款は「老いてなお、心は冴え冴え」を意とするものだ。
草庵茶室「松花堂」は松花堂庭園内に再現されている。