八幡市アイコン  安居橋(あんごばし)

八幡市ライン

安居橋安居橋は、大谷川が放生川と名を変える八幡平谷の買屋橋から京阪電車踏切手前の全昌寺橋までの約200メートルの間の中ほどに架かる反り橋をいう。
江戸時代の放生川には、今よりも多くの橋が架けられており、川上から「五位橋」「安居橋」「六位橋」「高橋」という順番に架かっていた。安居橋の名の由来は、康正3年(1457)の後に架けられたため、「相五位橋」と呼ばれ、後に変化して「安居橋」になったのではないかと「男山考古録」は記している。また、その当時の安居橋は平坦な橋で、反り橋は約50メートルほど川下にあった高橋であった。
近くには男山四十八坊のひとつ、高坊があり、同坊の板敷と高橋の高さが同じだった。高坊は行幸御幸の際の宿坊であったため、天喜2年(1054)、「橋が高いのは恐れ多いことだ」として、高橋の橋脚が3尺切り下げられたという。

ページトップへ


 
八幡市アイコン  流れ橋(ながればし) 

八幡市ライン

流れ橋上津屋浜垣内の木津川堤防を下ると木津川に架かる木橋が見えてくる。正式名は府道八幡城陽線上津屋橋(こうづやばし)。人はこの橋を「流れ橋」と呼ぶ。
全長は356.5m、幅3m、木橋としては日本最長級である。流れ橋は府営の渡船場があったが、昭和26年(1951)3月に渡し船が廃止され、橋が架けられたが、永久橋だと経費がかかるため、節約型の木橋となったのである。
橋は、増水時の水の抵抗を減らすため、橋板にまで水が達すると橋板だけがフワッと浮き上がり、8つに分かれて流れる。流れ橋の名のゆえんである。しかし、この橋板はワイヤーロープで橋脚としっかり結ばれているため、水が引けば、このロープをたぐり寄せて橋脚に載せれば、再び通行できるようになる。
橋は平成16年(2004)の流出で、過去16回流れた。被害が大きかった昭和57年(1982) 、平成7年(1995)、平成9年(1997)は、全面改修が京都府の手によって行われた。昭和41年(1966)、枚方バイパス(現国道1号)にかかる木津川大橋の完成により、流れ橋の実用的な価値は減ったものの、木津川堤防のサイクリングロードとともに、近隣の人々の格好の憩いの場となっている。また、自然の風景に溶け込んだ橋は、よく時代劇のロケーションに利用され、河川敷に広がる茶畑と相まって、詩的な風情ををかもしだしている。

ページトップへ


 
八幡市アイコン  頼風塚・女郎花塚(よりかぜづか・おみなえしづか)

八幡市ライン

八幡市民図書館に近い和菓子店の裏にある小さな五輪石塔を「頼風塚」または「男塚」という。この石塔に対して松花堂庭園の西隅にある小さな五輪石塔を「女郎花塚」「女塚」といい、平安初期の叶わぬ恋の物語を今に伝えている。男塚の主は、八幡に住まいしていた小野頼風という人で、806年から808年ごろ、京に深い契りを結んでいた女性がいたが、いつしか二人の間に秋風が吹いていた。京の女は思いあまって八幡へと男を訪ねてくると、男が他の女と暮らしていることを知り、悲嘆のあまり泪川に身を投げて死んでしまった。

女郎花塚


やがて、彼女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ちて、そこから女郎花が咲いた。頼風がこの花の元に寄ると、花は恨んだ風情をたたえながら頼風を嫌うようになびくので、頼風は「こんなにも私を恨んで死んだのか」と自責の念にかられ、放生川に身を投げた。人々はこれを哀れみ、二人の塚を築いたという。頼風塚の周りに生い茂っている葦は「片葉の葦」と呼ばれ、女郎花塚の方にしか葉がついておらず、その葉が女郎花塚に向かい今も「恋しい、恋しい」となびいているのだという。

ページトップへ



 
八幡市アイコン  松花堂(しょうかどう)

八幡市ライン

松花堂庭園の北側にある茶室「松花堂」は、寛永14年(1637)、松花堂昭乗が泉坊の傍につくった草堂を再現したものであり、茶室と住居、持仏堂を兼ねた珍しい建物である。この草堂は、床、袋棚、仏壇を備えた二畳の間に土間、かまど、半畳の水屋をあしらい、これを方一丈のなかに収めている。天井は、土佐光武筆と伝えられる日輪と一対の鳳凰を描いた網代地で覆っている。草堂に起居し、点茶三昧に到達した昭乗の茶道の精神は、実にこの「松花堂」によって象徴されている。
庭園は、泉坊の庭園を東車塚古墳の上に復元したもので、松花堂昭乗自らの手による造園といわれている。庭の中心部は、古墳の前方部の平坦なところを利用して作られており、灯篭や立ち木を除いて空間を作り、地に這う潅木と巧みな飛び石の配置、それを埋める苔によって平面の美が構成されている。ただ一本、老松が臥龍のように枝を延ばしているが、これらは旭の美を鑑賞し、その美を強調する意図が秘められている。雄大な旭の美を借景にとらえようとする昭乗の豪快な気風の一端を偲ぶことができる。
松花堂茶室は府指定文化財、松花堂書院は府登録文化財、また松花堂及びその跡は国指定史跡となっている。また、松花堂庭園内には、江戸時代の豪商、5代目淀屋个庵(三郎右衛門、通称辰五郎)が愛用した「砧(きぬた)の手水鉢」が書院前に残っている。

松花堂(松花堂) 松花堂庭園イメージ

     

金明孟宗竹(きんめいもうそうちく)写真上段          
宮崎県東臼杵郡と福岡県久留米市で発見されたもので、孟宗竹が突然変異して生まれた竹です。
金色の地肌に一節飛びに表と裏に緑の縞が入っており、全体として金色と緑の市松模様になっている非常に珍しい竹です。          
亀甲竹(きっこうちく)写真下段          
こちらも孟宗竹の突然変異で、節間が交互に膨れており節が斜めになった竹です。
亀甲状に連鎖したその不思議な形は、観賞用や工芸品の材料として珍重されています。

ページトップへ


 
八幡市アイコン  エジソン記念碑(えじそんきねんひ)

八幡市ライン

エジソン記念碑男山山上の石清水八幡宮境内にエジソン記念碑が建っている。これは、発明王トーマス・アルバ・エジソンが八幡の竹を使って白熱電球の実用化に成功したことを記念し、建立されたものである。
エジソンは白熱電球の点灯時間を飛躍的に延ばすため、動物の爪や植物の繊維など、ありとあらゆる材料を使って実験を繰り返していた。その材料は6,000種を数えたという。そんな折り、研究室にあった扇に使われていた竹を使って実験すると、思いのほか、良い結果を得る。そして世界各国に最良の竹を求めることになった。
明治13年(1880)夏、エジソンの特命を受け、日本にやって来た助手のウィリアム・H・ムーアは、2代京都府知事の槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」と紹介される。そしてムーアによって男山付近で採取された真竹がエジソンの元へ送られた。結果は驚くべきものだった。約1,000時間も明かりを灯し続けた。以来、男山の竹はセルロースのフィラメントにとってかわる1894年までの約10年間、「八幡竹(はちまんだけ)」の名で、エジソン電灯会社に輸出され、何百万個の馬蹄型フィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けたのである。

ページトップへ


 
八幡市アイコン  神幸橋(しんこうばし)

八幡市ライン

男山山麓のニの鳥居をくぐり、約100メートルほど行くと、山側の岩壁が深く削れて細い谷となり、谷水が流れているところに出る。この谷筋を「祓谷(はらいだに)」といい、ここに架かる石橋が「神幸橋(しんこうばし)」である。
長さは約2.8メートル、幅は約3メートル。江戸時代、石清水放生会が催される前後の数日間のみ、木橋を架けて神が渡られるようにした橋で、当時、参詣者はニの鳥居をくぐらずに、山裾にあった長福寺の門前を通り、「相槌稲荷社」横にある登り口から上っていた。『男山考古録』によると、「普段は神幸橋が架かっていないのに、参詣者が二の鳥居をくぐって山上に参ろうとして祓谷に落ち、怪我をする人が時々あったので、明和年間(1764〜1772)に紺座町に住む石清水社士、小寺壽庵らが相談して石橋を架けようと申し出た。しかし、平谷町の旅籠や茶店を構えていた商人たちから、橋ができると二の鳥居をくぐって参詣するから商売に難渋すると反対があった」という。

石清水八幡宮表参道の途中にある。

ページトップへ

 
八幡市アイコン  寝物語国分橋(ねものがたりくにわけきょう)

八幡市ライン

東高野街道を八幡市民図書館から南へ300メートルほど行くと、左に入る道の角に「巡検道」と刻まれた道標が建っている。ここは「馬場」と「神原」との字界で、巡検道は、ここを起点とし、幅3メートルに満たない道は曲がりくねり、東へと延びている。旧市街地を抜けて大谷川を渡り、田園地帯を下奈良まで、その距離は約2キロメートル。古くはこの道を境にして、南を綴喜郡、北を久世郡とした、いわゆる郡界であった。神原町には寝物語古蹟国分橋の碑が建つ。この寝物語国分橋というのは、その昔、郡や村の境を決める際、両方の村から同時に出発し、出会った場所をその境界としたという。しかし、「出発までにはまだ時間があるから、もう少し、休もう」と、そのまま寝込んでしまい、出発の時刻を過ぎてしまった。そのために領域が減ってしまったというものだ。その碑の前にかかる「かへらずの橋」(国分橋のこと)とともに江戸時代以前からの伝承にちなんでつけられたものであると思われる。

ページトップへ


 
八幡市アイコン  下馬碑(げばひ)

八幡市ライン

八幡平谷の相槌稲荷社の南、石清水八幡宮への石段の左、登り口に建っているのが下馬碑である。  高さ1メートル55センチ、上家根形であり、この部分は55センチ。「下馬」の2文字を行書でもって大書している。この筆跡は,瀧本坊の住職だった松花堂昭乗のものと言われている。

この碑を見て、藤原尚次(男山考古録著者)は、摂津国の四天王寺に詣って、南門外道の東南の方向を向いた「下馬碑」があり、その形、文字の大きさ、彫刻の模様が八幡の下馬碑と全く同じで、さらに傍らに「寛永十四丑年」と彫っているのを見て、松花堂昭乗の筆跡であることは疑いないと言っている。また、松花堂昭乗は四天王寺において、弘法大師の筆法を学んだということが佐川田昌俊が記した『昭乗行状記』に見えることから、これは昭乗が四天王寺にいたときに書かれたものだろうと解説している。

ページトップへ

 
八幡市アイコン  航海記念塔(こうかいきねんとう)

八幡市ライン

航海記念塔京阪八幡市駅から南へ5分程いくと、神応寺総門の左にある大きな五輪石塔が「航海記念塔」である。
この五輪石塔は重要文化財に指定されており、高さは6.08m、幅2.44mに及ぶ日本最大規模のもので、下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪という。五輪石塔は、石清水八幡宮の宮寺だった旧極楽寺の境内に建立されたものであるが、寺は廃寺となって、この石塔だけが残った。石塔建立の起源や作者は不明だが、石塔にまつわる多くの言い伝えが残されている。
八幡神を九州の宇佐八幡宮から勧請した大安寺の僧、行教の墓だといわれているが、口碑によれば平安時代の末期に摂津国、尼崎の豪商が入宋貿易帰途の海上で 大シケにあい、石清水八幡宮に祈り無事に帰国できたことを感謝し、1171~1174年の承安年間に建立したものと伝えられている。以後、船乗りたちが航海の無事を祈願に訪れるようになったことから「航海記念塔」と呼ばれるようになった。
また、鎌倉時代末期のこと、1274年と文永の役と1281年の弘安の役の蒙古襲来に際して西大寺の僧、叡尊が石清水八幡宮で祈ったところ、神風が吹いて 元軍が敗れ去り、叡尊は彼等の供養をするため建立したともいう。この五輪石塔の巨石を積み上げる際、石工が金テコを使ったところ、石の間から火が噴き出し た。そこで八幡の竹を使って無事完成したという。

ページトップへ


 
八幡市アイコン  伊佐家住宅(いさけじゅうたく)

八幡市ライン

国指定重要文化財
伊佐家住宅上津屋村は、里・浜・東向の三つの集落よりなる。真宗の善照寺・専琳寺・光瀬寺の三ケ寺のある浜垣内で、庄屋を代々つとめる家が伊佐家である。当家は、江戸中期南山城地方における代表的な庄屋屋敷として、昭和50年主屋が国の重要文化財の指定をうけ、次いで昭和55年長蔵・内蔵・東蔵・乾蔵などの一連の建物が追加指定された。
主屋の屋根は、茅葺で軒端の厚さが1.5mにも及び、支える柱や梁はどっしりと太く、いかにも庄屋の屋敷らしい。屋敷の周囲には濠をめぐらせ、防禦と水利を兼ねた環濠住居で、棟札により享保19年(1734)造立がわかる。


※見学については、事前予約が必要で、基本的には10名以上のグループ、団体に限ります。
【予約先】四季彩館 075-983-0129


ページトップへ


 

八幡市観光協会シンボルマーク一般社団法人 八幡市観光協会
TEL : 075-981-1141 / FAX : 075-981-1132 
京都府八幡市八幡高坊8-7  (八幡市観光案内所内)