ロマン街道伝説を行く

大石塔、航海記念塔の謎

神應寺総門の左にある大きな五輪石塔が「航海記念塔(重要文化財)」である。

高さ6.08m、幅2.44mに及ぶ日本最大規模のもので、下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪という。
石塔は旧極楽寺の境内に建立されたが、寺は廃寺となり石塔だけが残った。
起源や作者は明らかではなく、石塔にまつわる多くの言い伝えが残されている。
八幡神を宇佐八幡から勧請した大安寺の僧、行教の墓だというもの、また口碑によれば平安時代の末期に摂津国、尼崎の豪商が入宋貿易帰途の海上で大シケにあい、石清水八幡宮に祈り無事に帰国できた。これを感謝し、承安年間に建立したという。

以後、船乗りたちが航海の無事を祈願したことから「航海記念塔」と呼ばれた。

また、鎌倉時代末期、文永の役と弘安の役の蒙古襲来に際して西大寺の僧、叡尊が石清水八幡宮で祈ったところ、神風が吹いて元軍が敗れ去り、叡尊は彼らを供養するため建立したともいう。
五輪石塔の巨石を積み上げる際、金テコを使ったところ、石の間から火が噴き出し、男山の竹を使って無事完成したという伝説が残っている。

- spot -航海記念塔

一の鳥居右の道沿いにいくと、神應寺の山門がみえてくる。

貞観2年(860年)、石清水八幡宮を勧請した行教建立の寺で、はじめは「應神寺」といったが、天皇の号をはばかり「神應寺」と改めた。

文禄年間(1592〜1596)、征韓の役にあって豊臣秀吉は、石清水八幡宮に詣で、軍の先鋒に神宮を望んだが、神社側は恐れて命に服さなかった。
秀吉は機嫌を損ねたが、神應寺住僧の機転で、征韓の首途にはまず応神天皇の御寺に参詣すべきと進言。秀吉は機嫌を直し、寺領200石を寄進した。

神應寺と淀屋辰五郎

本堂西側の小高い墓地には、江戸時代の豪商、5代目淀屋辰五郎が眠る。
大阪の「淀屋橋」は淀屋が架けた橋である。
「一刻の商いが80万両に及ぶ」という米市を初め、幕府や西国33ヵ国に総額15億両という大名貸しを行い、その威力は百万石の大大名も凌ぐ前代未聞の大豪商であった。5代目辰五郎のときに、幕府から「町人の分限を越え不届き」として闕所(財産没収のうえ所払い)となる。
時が経ち、御赦免となった辰五郎は再び八幡に帰ってきた。辰五郎の胸の内は、彼の戒名「潜龍軒咄哉个庵居士」に答えが見え隠れする。

- spot -神應寺

空海が刻んだ杉山谷不動の仏

八幡宮頓宮西側の谷道を登り詰めたところにある。
谷不動ともいわれ、「厄除け不動」として人々に信仰されている。

平安時代の初期、危害を加える悪鬼が出没し、人々を悩ませていた。
たまたま、諸国を行脚中の弘法大師(空海)がこの話を聞き、法力によって悪鬼を封じた。
そして、一刀三礼により、不動明王を刻んで安置し、諸人を護ったという。

また、一説には八幡神を男山に勧請した行教律師が男山の鎮守として建立したともいわれている。
その本堂には、悪魔降伏のために憤怒の形相をした不動明王(杉山谷不動の秘仏となっている)が座し、両脇には善悪を掌る矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか)の2童子が控えている。
不動堂の横を流れる谷川には、霊泉瀧(ひきめの瀧ともいう)があり、静寂のなかに清らかな水音を聞くことができる。

- spot -杉山谷不動尊

一の鳥居と松花堂昭乗

室町将軍の足利義満は参詣の際、この一の鳥居前で牛車を降り、本殿に向かった。

木造りによる鳥居の建立は、たびたび行われた。応永8年(1401)の造り替え時は、9月21日に山崎八王子で二本の杉を伐り、24日、大勢の人夫によって宿院河原へ運ばれた。
10月7日に2本の柱を立て、19日に笠木が上げられて21日にようやく完成した。
また、鳥居の造り替えのための材木料や人夫の特別徴収が行われたため、応永29年(1422)には大山崎離宮八幡の神人が、社務所の坊舎へ押し寄せ、乱闘になったと『看聞御記』は伝えている。

鳥居は元和元年(1615)に木造りで建てられたのを最後に、寛永13年(1636)に寛永の三筆とうたわれた松花堂昭乗の発案によって石造りに改められた。

鳥居の神額は、平安時代に書道の名人とうたわれた藤原行成が一条天皇の勅願により書いたもので、「八幡宮」の「八」の字は、鳩の姿を形どってあるといわれている。
石造りに改められた折、松花堂昭乗が行成の筆跡をそのまま書き写したものであり、惣胴板張りに金字で現されている。

高良神社と徒然草

石清水八幡宮の麓の頓宮横にあり、行教律師が建立した神殿の跡に鎮座している。
もとは、河原社と称し、馬場先本道を挟んでその前方を流れる放生川の側にあった。

貞観3年(861)に行教によって建立された古い神社である。
同社は慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いによって消失してしまったが、明治15年(1882)に再建された。
高良神社の有名な逸話として、元徳3年(1331)、兼好法師が著した徒然草に見ることができる。

「ある日、仁和寺の和尚が石清水八幡宮を詣でようと訪れ、極楽寺、高良神社を詣でた。参拝を済ませ、さて帰ろうとしたとき、人々は山頂をめざして階段を登っていく。何だろうと思ったが、私は今回の旅の目的である石清水八幡宮に参詣を済ませたのだからと帰ってしまった。
後で石清水八幡宮が山頂にあることを知って、どんな小さなことでも、案内人は必要だと痛感した」というものだ。
石清水八幡宮は遷座当初から国家、皇室、さらに武家の守護神として尊崇されてきたためか、もっぱら地域の人々が心のよりどころにした氏神は「高良神社」であった。

- spot -高良神社

男山四十八坊のひとつ、「高坊」の名は男山麓の地名として残った。
高坊は何度かその所有地を変えている。
その成立は長歴〜長久年間(1037〜1044)だと考えられている。

初めは神應寺領内の山に建てられ、坊の庭には不動谷の流れを引く風流の趣をもったもので、高坊の名はその在所、有り様に由来したものだった。
『旧記』によると、高坊は皇居にも準えられ、「障子絵は、紫宸殿の賢聖の障子を写し、荒海が描かれ、庭前の小山、立石は風流の極みで、荘厳であった」そうで、上皇の御幸や天皇の行幸の際の休憩所になった。

地名になった高坊

このことから『公文所家記』などの古書の中に高坊を「宿院」と記すものが散見される。
康平5年(1062)の別当清秀の時に、中門と長い廊下を増築。続いて建保6年(1218)10月22日には、随身所が増築されたが、永仁6年(1298)の冬に焼失。その3年後の正安3年(1301)に再建のための造営が行われた。
観応3年(1352)4月25日、宿院合戦のときに神宮寺が炎上、高坊も類焼したものと思われる。

安居橋と高橋

安居橋は、大谷川が放生川と名を変える八幡平谷の買屋橋から京阪電車踏切手前の全昌寺橋までの約200メートルの間の中ほどに架かる反り橋をいう。

江戸時代の放生川には、今よりも多くの橋が架けられており、川上から「五位橋」「安居橋」「六位橋」「高橋」という順番に架かっていた。

安居橋の名の由来は康正3年(1457)の後に架けられたため、「相五位橋」と呼ばれ、後に変化して「安居橋」になったのではないかと「男山考古録」は記している。
また、その当時の安居橋は平坦な橋で、反り橋は約50メートルほど川下にあった高橋であった。
近くには男山四十八坊のひとつ、高坊があり、同坊の板敷と高橋の高さが同じだった。高坊は行幸御幸の際の宿坊であったため、天喜2年(1054)、「橋が高いのは恐れ多いことだ」として、高橋の橋脚が3尺切り下げられたという。

- spot -安居橋

放生川の鯉物語

男山の麓、放生川のほとりに仲のよい母と子の二人が住んでいた。
その子は、とても親想いの優しい子であった。

ある日のこと、母が重い病いにかかり、寝込んでしまった。
子は一生懸命に看病したが、一向に良くならない。そんなとき「鯉の生き血を飲ませると、重い病いでも良くなる」という噂を聞いた。

しかし、放生川は「殺生禁断」、生き物を捕ってはならないところ。それでも母を見殺しにはできないと、子は放生川に入り、大きな緋鯉を捕らえ、その生き血を母に飲ませたのだった。
すると、母は見る見る元気になった。殺生禁断の法を破った子は、その罪を償おうと、役人に名乗り出た。しかし、その健気さに役人は心を打たれ、罰することはなかったという。その後、長患いしたときに、生きた鯉の代わりに紙で作った真鯉と緋鯉を枕の下に敷くと、病いが治るという言い伝えが残った。
そして、いつしか、「床ずれが治る」といわれるようになり、「紙鯉」は石清水八幡宮参拝のお土産になったという。

飛行神社と二宮忠八

飛行神社は、大正4年(1915)、航空界のパイオニア、二宮忠八が八幡市八幡土井の自宅邸内に創建したのが起こりである。

忠八は、慶應2年(1866)6月、愛媛県八幡浜に誕生。
独学で作った凧は、独創的かつ奇抜で「忠八凧」と呼ばれた。明治20年(1887)12月、丸亀歩兵連隊に入隊。四国山岳地帯で演習中、鳥が残飯を求め滑空する姿に興味を示し、空を飛ぶ機械の発明に大きなヒントとなった。

以後、研究を重ねて明治24年(1891)4月29日、日本人初のゴム動力による「カラス型飛行器」の飛行に成功。
次に人の乗れる「玉虫型飛行器」を考案に着手。明治26年(1893)に設計を完了し、軍で研究開発してもらおうと願い出たが却下され、独力完成を決意。
資金を貯え、自力で飛行機開発の条件が整った明治33年(1900)、京都府八幡町に土地を求め、開発に努力していたところ、明治36年(1903)12月17日、ライト兄弟が飛行機を完成させ、飛行に成功したとの報を聞くことになった。
忠八は無念の涙を流し、「飛行機を作ったとしても真似という評価しか受けない」と製作を断念したという。

- spot -飛行神社

天下の豪商、淀屋の5代目辰五郎は、宝永2年(1705)5月16日に闕所(けっしょ=江戸時代の刑罰のひとつ。家財の没収)となり、辰五郎は宝永6年(1709)に江戸に潜行。

そして6年後の正徳5年(1715)、日光東照宮100年祭の恩赦によって八幡に持っていた山林300石が淀屋に返還され、翌年に辰五郎は八幡に帰ってきた。
そして八幡柴座の地に居を構えた。その屋敷には、男山中腹の杉山谷不動の″ひきめの滝″から竹の樋を使って邸の手水鉢に水を引き、その落差を利用して、手水鉢の中で踊るコブシ大の石の音を楽しんだ。

淀屋辰五郎邸跡と砧の手水鉢

この音が洗濯に使う砧(きぬた)を打つのによく似ていたことから「砧の手水鉢」と呼ばれた。また、筧中を流れる水の音が「ドンド、ドンド」と聞こえたらしく、筧が敷設された小径を「ドンドの辻子」、その辻に面して建つ住居を指して「ドンド横丁」と呼ばれた。翌、享保2年(1717)12月21日、辰五郎は33歳の若さでこの世を去り、手水鉢は主を失う。
そして今、この手水鉢は、松花堂庭園の書院裏庭に残っている。苔生した手水鉢を眺めていると、淀屋が見た夢が広がってくるようだ。

- spot -松花堂庭園

単伝庵で落書き祈願

古くは神原町にあったとされ、一時中絶の後、男山中腹にあった四十八坊のひとつ、法童坊に預かり置かれていた。

単伝庵は、別名「らくがき寺」として知られているユニークな寺である。
山門を入った正面には大黒堂という御堂がある。この御堂の白い内壁が、願いを託した落書きで真黒になっている。
落書きは、年齢や性別、時代を問わず、人間生活における心の遊びであるといえる。

平城宮跡の発掘調査でも、木簡や土器などの遺物のなかに、いろんな落書きが見つかっている。
さらに9世紀の嵯峨天皇の時代(809〜823)になると、落文(おとしぶみ)や落首などと称して、政治、社会を批判するものがみられ、これらは匿名の文書を道に落したり、門壁などに貼り付けて衆人の目に触れさせるといったものであった。
こうした落書きは、公式文書には見られず、人々の「本音」があり、当時の世情を知る重要な手がかりとなっている。

単伝庵を訪れる人々も、筆を持って白い壁に向かうときの緊張感と真剣さが、大願成就に結びついているのかもしれない。

- spot -単伝庵

放生会に架けられた神幸橋

男山麓の二の鳥居をくぐり、約100メートルほど行くと、山側の岩壁が深く削れて細い谷となり、谷水が流れているところに出る。この谷筋を「祓谷(はらいだに)」といい、ここに架かる石橋が「神幸橋(しんこうばし)」だ。

長さは約2.8メートル、幅は約3メートル。江戸時代、石清水放生会が催される前後の数日間のみ、木橋を架けて神が渡られるようにした橋で、当時、参詣者は二の鳥居をくぐらずに、山裾の山ノ井あたりにあった長福寺の門前を通り、「相槌稲荷社」横にある登り口から上がっていた。

『男山考古録』によると、「橋の両側の岩が崩れたため、石垣を積み、幅を2間とした。普段は神幸橋が架かっていないのに、参詣者が二の鳥居をくぐって山上に参ろうとして祓谷に落ち、怪我をする人が時々あったので、明和年間(1764〜1772)に紺座町に住む石清水社士、小寺壽庵らが相談して石橋を架けようと申し出た。
しかし、平谷町の旅籠や茶店を構えていた商人たちから、橋ができると二の鳥居をくぐって参詣するから商売が難渋すると反対があったという。

- spot -神幸橋

大扉稲荷社の祭

石清水八幡宮二の鳥居をくぐり、通称「七曲がり」と呼ばれるジグザグの石段を過ぎると分岐点にさしかかる。ここに建つ朱塗りの鳥居の社が「大扉稲荷社」である。

その昔、このあたりには狐の住む穴があって、柴草を刈りに来る人々にいたずらをするので、小祠を建てて崇めたという伝説が残っている。
文政12年(1829)に至って、杉本坊親杲らが泉坊と相談、八幡宮に願い出、鳥居、玉垣を新たに作り、現在の場所に社を移して改築した。社の祭神について次のような話が伝えられている。

当時、富くじが流行していた。この稲荷社に祈った人が、その霊験によって富を得たことが伝わると信者を増やし、その信者の寄進で建立になった。
しかし、その祭神の名を知る人がなく、古記にも伝えられていなかったので、京都七条の高瀬川傍で稲荷を信仰し、占いなど神告を業としていた人によって、「我は相槌稲荷の子、名を登毘良明神と申す」とのお告げを受け、その神の名を知ることになった。
こうして大扉稲荷社を信仰する人が多く、ここへ詣る人が多かったという。